2011年12月20日火曜日

ニュージーランドと本の話

来週木曜日から、ニュージーランドに行きます。
写真をたくさん撮ろうとか、向こうにワーホリで行ってる友だちとたくさんお喋りしようとか、
楽しみなことはたくさんありますが、何の準備もできていません、困った。

観光ガイドを見るより、現地に住む人のブログを読んでNZへの気持ちを高めています。
ガイドブックで行くより、口コミで行く旅にしたいので、おすすめがあれば教えて欲しいです。

シンガポール経由で向かい、
31日にクライストチャーチについて年越し。
次の日はクイーンズタウンへ行き一泊、
クイーンズタウンからマウントクックを経て、テカポ湖に行きそこで一泊、
またクライストチャーチに帰ってきて一泊し、帰国の予定です。
移動が多いのでバックパックで行きたいし、極力荷物を減らさなきゃ。
宿泊は友人の友人のお家に泊めてもらいます。
連絡用にwifiの端末だけは借りて行こう。ネットだけは繋がるようにしときます。


クライストチャーチは31日にゆっくりまわれそうだけど、どこに行ったらいいのかなー。
アートセンターは絶対行きたい。キウィも見れたらいいな。
今回は街中をまわるというよりマウントクックとテカポ湖と、雄大な自然を見る旅になりそうで楽しみです。
友だちがいろいろ手配してくれて本当にありがたいです。
クライストチャーチは今年頭の地震の痕がまだあちこち残ってるらしい。
一番有名な大聖堂は未だ立ち入り禁止とのこと。
日本は震災後の今、どんな状況なのかそれくらいは説明できるようになっておきたい。
今回は、予定を詰め込むより、のんびり散歩したり広い風景を見て深呼吸したり、そんな旅にしたいです。
写真、たくさんたくさん撮ってこよう。


最近、本を数冊お借りして、この本を読み終わりました。



この本読んだら旅に出たくなるなあ。
観光旅行ではなく、放浪の旅についてどれだけ魅力的なことか語ってる本。

ちなみに私のおすすめの旅本は、


です。世界9万5千キロを自転車で走った話。

最近、帰りも遅くあまり本を読めていないのですが、他に読んだのはこれです。
これもお借りした本で、割と読んだことあるような自己啓発の内容が書いてあるのだけど、
他の自己啓発本よりきっとずっとおもしろい。自分でも買いそう。

これから読みたいのは、

いま読んでるのは最近はまってるブロガー、chikirinさんの自分のアタマで考えよう
この方の文章とても好きです。
ニュージーランドでは、友人の間で話題になってるものぐさ精神分析 (中公文庫)を読む。

amazonのほしいものリストをこの前数えたら、
80冊ほどほしい本があることに気がつき、合計8万ウン千円でした。
今年は旅にお金を随分とかけた年だったので、来年は本を読む一年にしようと思います。
といいつつ、旅行に行ってしまいそうだなあ、自粛しよう。お財布大ピンチ。
ほしいものリストにちゃくちゃくとほしい本が溜まっているのに、
実際に買う本は衝動的欲求で買ってしまいます。友だちがおもしろいと言ってた、とか。

リストが空になることはきっとずっとないんだろうな。
行きたい場所だって尽きることはない。
会いたい人も、
描きたいことも。

絵は年始から、キャンバスに描ければと思ってます。
今年は、世界にとっても、日本にとっても、私にとっても、怒濤の年でした。
伏見稲荷大社の大吉のおみくじを握りしめて、今年をきちんと締めくくれたらいいなと思います。

2011年12月11日日曜日

月食とブルーモスクはよく似合う

TRANSITのトークイベントに行ってきました。
今回のTRANSITはトルコ号。ブルーモスクが表紙です。
トルコは行きたくてたまらない国の一つ。いつか行くと思います。

イベントは、トルコ取材での写真をスライドで紹介しながら、
編集長とカメラマンがおしゃべりする形式でした。
好きな雑誌なのだけど、今の日本でこんな雑誌、他にないんだろうなと思った。
国を決めて、編集者(兼ライター)とカメラマン5名くらいが現地に赴き、各々取材や撮影をしてまわるらしい。
現地取材の計画書を出発前日に提出して、現地で決めながら撮影するカメラマンもいるらしい。
カメラマンも編集者も、独自の視点と拘りがかなり強い印象でした。
今時これ程好き勝手してる(ように見える)雑誌ってなかなか無さそう。
ずっと続いて欲しいなあ。

どの話もおもしろかったけれど、特に印象的だった話はふたつ。

ひとつは、わずか17年前に発見された「ギョベクリ・テペ」という遺跡の話。
この遺跡は、これまで最古とされてきた9500年前のシュメールを2000年上回る
1万5000年前のものということが判明し、
さらに驚く事には、その神殿の周囲には人々の定住の痕跡や、階級の痕跡が発見されなかったらしい。
つまりこれは、「人類の歴史が農耕よりも先に、狩猟民による宗教が存在した事を示唆して」いるらしいです。
(TRANSIT p.116より引用)
これは今まで考えられていた人類が定住とともに精神文化を発達させたとされている説を
覆してしまう大発見になるらしい。

とてもおもしろかった。
精神文化が発達していないとされていた農耕以前の狩猟の時代に宗教が存在していたとするなら、
人間ってなんだろう、動物との違いってなんだろうと考えたときに、
「祈り」は一つのキーワードになるのではないだろうか。
道具を使う、火を使う、言葉を使う、これらも人間の特性ではあるけれど、
道具や言葉は類人猿やイルカも使用する。火だっていつか克服するかもしれない。
「祈る」ことは「人類」の精神文化の起源といえるのではないだろうか。
今日は長電話をして、古代のアテネやスパルタ、ローマといった古代文明の話を
たくさん聞いて(私は無知なので頷いてるだけ)、
今週末は思考がタイムトラベルしているようでした。

もうひとつ、おもしろかった話は、フィリピン奥地のかなり変わった葬祭方式の話。
垂直に切り立った崖に棺桶を吊るす?か何かで、その上に十字架がぽんと横向きで立てかけられてる。
崖に何個も棺桶がくっついてる光景はかなり異質だった。
そんな形式をとるのは、世界中でもそこくらいらしいけど、
カメラマンの方の発言で、「死にまつわる儀式は、どこでも真剣でごまかしがない」という言葉がすごく印象的。
結婚式をはじめお祝いはどこでも似たような雰囲気があるらしいけど、
葬儀はそれぞれの地で全く違い、そしてどこでも真剣らしい。

この話がとても面白くて、世界の葬儀や墓について調べてみたいなと思った。
「どこでも真剣でごまかしがない」のは、生きる人の死に対する恐怖心が表れているからではないだろうか。

「祈り」はきっと根本的には「死」への恐怖を和らげるためのものだと思う。
プラスの幸せを生み出すよりは、マイナスを埋めるために宗教や祈りが存在していると考えてる。

動物は、死への恐怖を感じているのだろうか。
恐怖は感じるだろうし、子孫を残すための生存本能はあるだろうけど、
死を思い、恐れることはあるんだろうか。

「恐怖」は創造にどう関わりを持っているのだろうか、と考えています。

昨日、トークイベントの後、お酒を飲んでライブペイントをさせてもらう機会があって、
人の筆致と自分の筆致を見比べて、自分のものは如何に怯えているか、縮こまっているか理解した。
堂々と自信を持って、のびやかな線を描いてみたい。
初めての経験で、とても刺激的でした。
自分の弱さや、堅さ、恐怖心、すべて筆を通して表れる。
今の私を知るには、今の私の絵を見るのが一番いい。
最近鮫島さんとも話してたことだけど、改めて実感した。自分の弱さを楽しく感じた。
私の中に強く根付く恐怖心をどうすれば払拭させることができるんだろう。
そしてその時、一体私は何を創るんだろうか。


自分の頭の悪さ、回転の遅さに唇かんで涙を飲む日々です。追いつきたい人がたくさんいる。
2週間ほど読書を休んでいましたが、明日の通勤電車から再開しようと思います。

2011年12月8日木曜日

「世界制作の方法」と週末のはなし


個展をしたいな と考えています。
まだ具体的には決まってないけど、来年にはしたい。
計画中です。大きなキャンバスがマンションのエレベーターに乗るのかどうか、
まずそこから不安な状態ですが頑張ります。

最近は仕事が詰まっていて、朝は5時起き帰りは終電とかよくありました。
数日ホテル暮らしもしました。
己の未熟さに、歯痒さや、穴があれば入りたい気持ちを味わう日々ですが、
それでも楽しく仕事をさせていただいてます。

と言いつつ週末は、
くちばしニュートロンさんでのパーティに参加して作家さんとお話ししたり、
友人のレコ発ライブに行ったり、展示を見に行ったりしています。
国立国際美術館で今週末まで開催されている、
「世界制作の方法」「アンリ・サラ展」「中之島コレクションズ」がとても良かった。
3つの展示を見れて850円。なんでこんなに安いんだろう。今週末までなので行ける方は是非。

「世界制作の方法」は久しぶりに図録を買った展示でした。
クワクボリョウタさんの作品、話には聞いていたけれどとても良かった。
子どもの頃にあの作品を見れていたら良かったなあ、と思う作品だった。
金氏徹平さんの作品は自分の世界観に影響を与えてくれるような静けさだった。
一番好きな作品だったと思う。なんとなくヤノベケンジさんの作品を思い出した。ヤノベさんも好きです。
アートユニット、パラモデルの作品はわくわくしてインパクトはダントツだったな。
今回の展示のコンセプトに、
彼らは、インスタレーションといわれる展示空間全体を表現の場とする方法論が、場所性という外的要因に囚われて表現が硬直化していった状況に対して、表現することの根源的な地点まで立ち戻り、展示空間を自らの表現を確立する場として捉え直し、その方法論を再解釈するのである。
と掲示されていたのですが(http://www.nmao.go.jp/exhibition/index.htmlより引用)、
パラモデルの作品は、自分がどこにいるか分からなくなる感覚を味わえて、
自分の中では一番このコンセプトに当てはまる作品だったように思う。
「世界制作の方法」という展示名は哲学者ネルソン・グッドマンの著書に
由来しているらしいので、この本は必ず読みます。

アンリ・サラ展も興味深かったし、
前知識ゼロで行った中之島コレクションズがすごく良かった。
大好きなマーク・ロスコの作品を初めて生で見れました。
ポスターほしいなと思ってたけど、本物はそれよりずっといい。
もう一度と言わず何度も見たいです、ロスコ。
DIC川村記念美術館に行く計画、本気で立てよう。
来年奈良美智さんが横浜でされるらしい個展は見に行きたいし、
そのときに行ければいいなー。

今週末は、京造の卒展で一番印象的だった桃田有加里さんの個展に行く予定。
作品の表面がすごく綺麗で、丁寧に作られた作品って上品さがあることを知った。
油を始めた今、また見え方が変わっているといいな。楽しみです。

あと、好きな雑誌「TRANSIT」のトークイベントに行こうかと思ってます。
予約のお返事待ち中。

最近、鮫島さんとお話する機会があって、
自分の考え方や絵を描くことについての想い、時間軸の捉え方等々、お話しして、すごくすごくおもしろかった。
同じ「描く」人でも、「描く」ことに対する感覚に大きな違いがあることが分かった。
ここ数ヶ月で「描く」というより「表現する」、「創る」行為にシフトしてる感覚があったけど、
それがもっと鮮明になった気がします。
自分にとっての「創る」をもっと模索していきたい。
人と話すのって楽しいんだって、改めて感じた機会だった。嬉しい。




朝6時の通勤風景


今年は、自分にとって大きな変化があった年だった。
年明けしてすぐにHidari Zingaroで展示をさせていただいた。
ものすごく辛かった出来事もあった。
夏になるまでは泣いても泣いても泣ききれず、毎晩のようにぐずぐずしてた。

その時期から本をよく読むようになって、考え方が大きく変化したと思う。
自分の至らないところ、知らない世界にばかり目がいって、自分の浅はかさを恥じて、身の程を思い知らされた。
でもその分、知りたいことがたくさん出てきた。考えたいことがたくさん見えてきた。
何を考えるべきなのか、何を知るべきなのかが見えてきた。苦手だったものが少しだけ好きになった。
昨年より多くの人と知り合えて、昨年より多くの人と深いコミュニケーションが取れた。

去年の自分よりは、今年の自分はみっともなくて情けなかったけど、それに気付けた分今の方がずっと好きだ。
当たり前のことを考えられる人間になりたい。

2011年は忘れられない年になる。3.11を筆頭に。
2012年が社会にとって、自分にとって、どんな年になるかまだ分からないけれど、
2011年に変化した自分をもっと磨いていきたいです。

2011年11月29日火曜日

寒い日に


「寒い・冷たい」と孤独は似ている。

持論ですが、孤独感が人を動かすと思う。
怒りという人もいるけれど、私は孤独感だと思う。
老若男女問わず、孤独はずっとつきまとう。

私は自分のであれ他人のであれ孤独に過剰に敏感で、その深さを探ろうとしてしまう。
本当に大切な人って時々いて、その人を孤独感からどれほど解放させられるか考えること、
それを行動で示し続けることが、私にとって愛するということだった。
大切な人の孤独を拭いたいと心底思うし、
おそらく忍耐が必要なその作業をずっと続けていきたい。
それなりに覚悟が必要だろうし、泣いたり怒ったりするだろうけど、それでも続けていきたい。

本当は、孤独から一番解放されたがっているのはきっと自分で、だから絵を描き続けているのだろう。
絵を見てもらって孤独感をまぎらわすのではなく、
現実の世界とは別の、自分の世界を新たに生み出すことで、孤独から逃げているのだと思う。
自分の世界を生み出したことで、今度はそこに人を踏み入れることを恐れてしまったけど、
いつまでも極小化された自分の世界だけで生きていく(描き続ける)ことは、そろそろ止めたいんだ。

きっと転機なんだろうな。
「自分は変わらないけど、お前は変われ」が
全てのディスコミュニケーションの基であるという話が
なかなか印象的で、これまでは自分の世界を守ることを優先していたけれど、
今後は私や私の世界の形を、徐々に変化させていきたい。
始めのうちは、それまで逃げてた孤独感と正面きってぶつかることになるけれど、
それくらい頑張りたいと思えることはきっととても幸せなことだ。

そしてそれが完成したら、孤独を拭う、マイナスをゼロにする愛からもう一歩進んで、
ゼロをプラスにする、楽しいや嬉しいをたくさん生み出す、そんな人になれたらいいなと思います。

2011年11月21日月曜日

萬福寺芸術祭に行きました

萬福寺芸術祭に行ってきました。










土曜日は雨でしたが日曜日は快晴で、とても気持ちよかったです。
昨年は行けなかったのですが、今年は作品も出展させていただけて、楽しみにしていました。

高木正勝さんの作品をお寺の門の上で見れたのが嬉しかったな。
展示されてる作品もどれも素敵でした。

広いお寺の隅々まで、スタッフの気持ちがこもってるのが分かる展示でした。
すごく素敵だった。スタッフもお客さんも、みんな楽しそうだったな。
出展させていただけて、改めてありがたかったです。
来年もきっと行こう。

出展させていただいた作品は、
サイトpixivに掲載しています。
是非見ていただけたら嬉しいです。

2011年11月18日金曜日

自分の少し大事な話 後半



後半

長いので一区切り。
前半から読んでください

「村おこし」は「村」を「おこす」ではなく「村民」と「育てる」必要があると考えました。
だけど私は今まで、村おこしなんて考えたこともなかった。敢えて避けてきた。
なので具体的な行動を、どう考え始めたらいいのかさっぱり分からない。

最近読んだ原研哉さんの「デザインのデザイン」にそのヒントになりそうな記述があったので、少し長いけど引用する。

未来のヴィジョンに関与する立場にある人は「にぎわい」を計画するという発想をそろそろやめたほうがいい。
「町おこし」などという言葉がかつて言い交わされたことがあるがそういうことで「おこされた」町は無惨である。
町はおこされておきるものではない。その魅力はひとえにそのたたずまいである。
おこすのではなく、むしろ静けさと成熟に本気で向き合い、それが成就した後にも「情報発信」などしないで、
それを森の奥や湯気の向こうにひっそりと置いておけばいい。
優れたものは必ず発見される。「たたずまい」とはそのような力であり、
それがコミュニケーションの大きな資源となるはずである。
原研哉『デザインのデザイン』岩崎書店 2003年10月発行

前半冒頭で紹介した、川俣さんのインタビューには、

そんなに簡単に町おこしが出来るわけがない。町おこしのための町おこしが、
結果としてまったく町おこしになっていないという例をいくつも見ています。
結局は、人がどうやって繋がっていくのかということでしかないのに、
経済などの観点からいろいろなイベントを組んでも、一過性のアイディアでは将来に繋がらないです。
もう少し長いスパンで付き合っていかなければ、イベントで人を呼んで町が起こるというのはありえないと身にしみて感じています。(略)
もっと根本的なところから町や人に関わっていかないと変わらないと思いますし、
経済的なものだけではなく、教育であったり、実際に住民とどのあたりまで繋がるかであったり、
もっと地味な繋がり、コミュニティと接していかないとなかなか結果は出ないと思います。

とある。

私は、川俣さんのいう「人がどうやって繋がっていくのかということでしかない」
「教育であったり、実際に住民とどのあたりまで繋がるか」に着目して考えたい。
これがきっと一番難しいし、私が苦手として逃げ出した部分でもある。

農家の人は毎日ほんとに忙しい。朝4時くらいから起きてる。
一日中、寒かったり暑かったり重かったり冷たかったり、私じゃ1時間で音を上げそうな、そんな仕事をしてる。
牛相手じゃお休みだってとれない。
そんな人に、一時的にアート作品を見せるとか、村にアート作品を置くとか、そんなことしたって何もならないと思う。
小学校で1日だけ、○○に絵を描くなんて授業をしたって、村を育てるにはならない。
もっと生活になじむコミュニケーションを考えたい。

例えば(今考えながら書いてるから大したアイデア出てないです)、
椎茸の苗木が黒いカバーをかけられてずらっと並ぶのだけど、そのカバーをもっと美しくできないか、とか…?
並べ方を美しく出来ないかとか?
牧草ロールをもっと美しくできないかとか?
牧場の牛にはおうちの名前が書いてあってそれはそれで可愛いけど、
もっと別のアイコンを考えることはできないかとか?
丸太の並べ方を変えたら美しくならないかとか?
こんな小さなことだけではなく、川俣さんのプロジェクトのように大きなスケールで考えてみたい。
全くの白紙の状態だけど、永続的に続けられることを考えてみたい。

私のアイデンティティがそこにあると分かった以上、これ以上コミュニケーションを逃げたくないのだ。
頭の中で考えているだけにせよ、その地と向き合うことが、自分と向きあうことでもあると気がついたように思う。
村と人と表現を通してコミュニケーションをとる、もしくはコミュニケーションを通して表現する、
どちらにせよ、今まで逃げてきて「どこにでもない場所」にいる感覚だった私には、不慣れなことでびくびくしてるけど少し嬉しい。

当面は今のこの場所で、あの場所を滲ませながら絵を描くしかできないけど
私が育ったのはあの村だというアイデンティティを確信した以上、それを発信していきたいと思う。
そして今の、これからの私に出来ることを、もっと考えていきたい。

自分の少し大事な話 前半

最近、村おこし、町おこしのことをよく考えている。
この「おこし」という言葉をあまり使いたくないけど、他にないのでこれを使います。
考えはじめると、思っていた以上に自分にとってのキーワードだったことが分かった。

考えはじめたきっかけは、川俣保さんのインタビュー記事を読んだこと。

この記事、とても良いので是非読んでほしいです。
この記事を読んでから、村おこしについて考え続けてる。

何を考えているかの前に自分の話。
長くなるけど、これを書かないと次に辿り着けない。

私は九州の人口1800人(私がいた当時なので、2010年では1600人くらいらしい)の
小さな村出身で、小学校の同級生とか私を含めて3人だった。中学校で20人。

どんな村かというと、まず標高700m。山の上。車でヘアピンカーブを登る。
名水100選に選ばれるような水源があって、水道の水はそこの水。
家の前にはたんぼが広がって、通学路に牛舎があって、鶏の声に朝起こされて、
村民放送でラジオ体操が流れて、ポストが丸い。
民宿があって、干し柿が吊るされてあって、ハウス栽培でトマトやちんげん菜が育ってる。
家の隣の川にカワセミがいる。フクロウもいる。キツネもいる。
イノシシが出ると、「イノシシ駆除隊の皆さんは〜に集合」みたいな村民放送が流れる。
5月になると、ものすごく大きな、龍みたいな鯉のぼりがあちこちで空を泳いでる。
冬は水道が凍ると爆発するので、常に水をちょっぴり出しておかなきゃいけない。
冷蔵庫より廊下の方が寒い。大根凍る。枕元に置いてたシクラメンが凍った。
車がないとどこにも行けない。最寄り駅まで車で25〜30分。

なんか書きながらセンチメンタルな気分だけど、書く。私はそんなとこで育ったんです。
私はその村に自分から住みたいと言ったのです。元々の実家がそこという訳ではない。
私が住みたいと言ったから、そこに住むことになったのです。
去年くらいにふと、自分の絵はあの場所で育たなかったら描けなかったことに気がついた。
最近、日本人として制作する上でのアイデンティティってなんだろうと考えていて、
「日本」と考えるとまだピンとこないけど、「村」を思い出したらそこに私のアイデンティティがあると思った。

でもこれからは都会に住むだろうと確信してる。
確信の8割方は車の免許を今までもこれからも取得することはないという理由から。
自分の性格と能力を照らし合わせて、無理ですと判断しました。悲しいです。

重要なのは残りの2割。
村の景色が染み付いているはずなのに、私はあまりその話をすることはないし、
結構特殊な体験(蜂を食べたとか、鶏の産卵を毎日間近で見てたとか)をしてることを
アイデンティティとして前面に押し出してこなかった。

それは自分の中に少しだけ、あの場から逃げた感覚があるからだと思う。

私が都会に住むのは、都会の隣人に対して一切干渉しない環境に依存してるから。
田舎コミュニケーションは、玄関は開けておく。誰かが当然のように入ってくる。物理的にもそうだし、精神的にもそう。
きっとそうでないと暮らしていけない環境が、昔からそこにあるからだと思う。
道の草刈りとか、冠婚葬祭とか、みんなでしなくちゃ暮らしていけないから、全員でする。
そんなコミュニケーションが苦手で、それから逃げて、都会に住んでると自分では感じてる。
村のことを思い出すと、罪悪感がどっしりくる。好きなだけに苦しい。
だから村おこしのこととか、敢えて考えるのを避けてたと思う。でもその単語は普通の人よりなじみ深い。

上の記事を読んで、今の私だからこそ出来ることがもしかしたらあるんじゃないか、と考えるようになった。
村おこし、町おこしって、カフェやお店を開店したり、イベントを計画したり、することではない。
もしそれが流行って、長期で続いたら結果的に村おこしに繋がることもあるけど、
単発で行ったら何の意味も無い。これは実際に良い例も悪い例も見てきて思う。
うちの村には、良い例が少ない気がしてたけど、これは後者の単発的なものが多かったからだと思った。
「村」を「おこす」のではなく「村」を「村と」「育てる」必要があり、その「村」は「村民」と言い換えられる。
そんな計画を立てなくてはいけないんじゃないかと考えました。
後半に続きます。

2011年11月11日金曜日

キャンバスに私を閉じ込めるということ

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参加予定
「萬福寺芸術祭ーENー」
2011.11.19[sat]-20[sun] 12:00-19:00
会場|黄檗宗大本山萬福寺

詳細は一つ前の記事に記載しています
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昨日読んだ、宮島達夫さんのこの言葉がとても良かった。

自分の中に生じていた違和感。
言葉が大切だということはよく分かる、
でも作品のコンセプトをはっきり完璧に言いあげることができれば、
そもそも自分が作品を作っていただろうかという違和感。
でも言葉って大切だと思う矛盾。
「言葉が大事」という認識と「絵画で表す理由」のバランスを巧くとることが出来なかった。

この小さな矛盾と違和感を払拭してもらえたように思う。

言葉にするのが大切なのは、一つ一つの絵の説明ではなく全体を通した世界観。自分の指標。
何を作りたいのか、
何を考えているのか、
どう生きてきたのか、
どう生きていきたいのか、
誰を、なぜ好きなのか、
私の世界は一体どんな世界なのか。

私がどんな世界観を持っているか、徐々に固まってきたように思う。
今のところキーになっているのは「全」と「線」、あやふやなのは「点」。
全ては繋がっているということ。「点」は「一」とも「個」とも「今この瞬間」とも言い換えられる。
線の上の「点」をこれから詰めていきたい。

こうして考えれば考える程、絵を描くって難しいと感じてる。
自分に渦巻く考えがどんなことを言っているか、ようやく掴めつつあるというのに、
それをどうキャンバスの上に落とし込めばいいのだろうか。
この考えが何色なのか、どんな形をしているのか、格闘しなくてはならない。
落とし込むというより、流し込むの方がイメージとしては近い。あくまでもニュアンスの話だけど。
創るってこんなに難しいことだったのか。
でも創りたくてしょうがない。私の世界を形にしたい。

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明日は、岐阜県美術館所蔵 ルドンとその周辺ー夢見る世紀末展に行こうと思います。とても楽しみ!
ルドンを見るのはおそらく初めて。あの独特な空間を醸し出す色使いをゆっくり見てきたいです。
あと、最近興味が薄れてきていたけど、印象派、
コローとドガが見たいな、と思った。ドガは生で見たらきっと綺麗だと思う。
あとセザンヌもちょっと楽しみ。すごく混んでるだろうかから、早起きして行こう。
そしてANTEROOM KYOTOで、「超京都名和晃平さんキュレーションという、すごく楽しみな企画展!
明日はゆっくり本を読もうなんて思っていたのですが、1日中動き回ることになりそうです。楽しみ。

2011年11月7日月曜日

ブログ移転しました/展示のお知らせ


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久しぶりに展示に参加します!

「萬福寺芸術祭ーENー」
2011.11.19[sat]-20[sun] 12:00-19:00
会場|黄檗宗大本山萬福寺

アクセス等、詳細はこちら
オープニング映像がきれいです。

今回は2点、既存の作品1点と新作1点を展示販売させていただきます。
既存の作品はこちら



新作はイベント後にwebにアップします。

展示をさせていただくのは、半年以上ぶり。
久しぶりに絵を直接見ていただける機会をいただけて、とても嬉しいです。
萬福寺自体がとても素敵なお寺のようです。
ぜひ京都の秋を楽しみながら、芸術に触れられるこの期間に
「萬福寺芸術祭ーENー」にいらしてもらえればと思います。

ちなみに19日同イベントで大学からの友人、ナキミソがライブをするそうです。
彼女は、今公開中の映画「モテキ」にも本人アーティストとして出演しているので、
ぜひそちらもチェックしてください。

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ブログを移転しました。過去ブログはこちら
1年分くらい、記事は移行させました。
今までのブログは、なんだかんだ3年半くらい続いていて、
愛着もあったのですが、twitterやfacebook、google+等、
SNSとの連携がこちらの方が便利そうだったので、移転しました。
そのうちサイトもドメインを取得して、きちんと作ろうと思います。
新しいブログはまだ手探りの状態なので、表示等おかしいところがあれば教えてください。

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先週は、3大学の学祭に行ってきました。

一つ目は、母校精華大学の学祭。
毎年、自分たちが作っていたサークル恒例のライブハウス、
今年も後輩たちが今年なりの工夫をして作っていて、
同期や先輩たちが帰ってきていて、一年に一度の当時の気分に戻れる素敵な日でした。

三つ目は昨日、京都市立芸大の学祭に行ってきました。
初めて京芸行ってきた。桂駅からバスで20分。

そこでひでつう先生(twitter @Hidetwo)の講演を聞いてきました。
ひでつう先生のツイートやブログが元々とても好きなので、今回初めてお話を伺えて嬉しかったです。
求められていることをする、という話が、新しい視点だった。
つまらなくても、おもしろくても、その時求められていることをする。
あまりこのこと意識していなかった気がする。覚えておこう。

講演会の様子

自己ブランディングする為の具体的な方法の話も分かり易かったし、
目標や、現状を可視化する話もおもしろかった。
数年先のカレンダーを埋める作業、早速挑戦してみよう。
ひでつう先生、今度はお酒飲みながらお話聴いてみたいなあ…


先日、別のところで聞いた、自分のアンチがほしいって意見に先日ぐらぐらきた。
嫌われるという自己ブランディング。
私は、どちらかというと、素直に好きと言ってもらえる作品を作りたいけど、
私の絵を好きな人もいれば、嫌いな人もいる、ということをもっとはっきりさせなくてはいけない気がする。
誰からも「嫌われない」作品づくりになってはいないか。
イラストレーションならば、それも構わないと思う。それは求められることだと思う。
ただ、キャンバスに油絵を描いている今、逃げの姿勢が前提なんて、いくらなんでも恥ずかしい。

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今読んでいる本はこちらです。





最近注目していた「選択」の話。
読み始めたばかりですが、野生より食事や寝床といった待遇がいいはずの
動物園の動物がなぜ野生よりずっと早死にするのかなど、興味深い内容です。

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最近、よく食事とワインをともにしていた人が、数ヶ月仕事で海外に旅立ち、
ネット越しに向こうでの生活の話を聴いて、すごいなあと励まされています。
私も、知識や経験を自ら求めて行動したい。
まずは、久々の展示、はりきります!多くの方の目にとまる作品になるよう、頑張ります。