2012年9月21日金曜日

空飛ぶペンギン

最近見た映画で一番良かったのは「皇帝ペンギン」です。

皇帝ペンギン
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皇帝ペンギンの生態を、物語のようなナレーションが入りつつ追っていく映画ですが、

見終わって最初に思ったのは、ペンギンって何て不可解な生き物なんだ、ということ。
寒くて死んでしまったり、
数ヶ月も何も食べれなかったり、
卵は数十秒冷気にあたるともうダメになってしまったり、
何で南極にいるのか分かりません。
寒い方が身体に合ってる生き物なのかと思ってたら、寒いと死んじゃうのか…。
なんで他の土地に移らないんだろう。

と、考えて、ここまで世界中を移動する生物は人間だけじゃないだろうか、気がつきました。
動物も移動はする。
マッコウクジラは餌を求めて4000km移動する。
ツバメも海を渡る。
でもそれはあくまで、数カ所のみを行き来する移動であり、「引っ越し」とは違う。

人間の歴史には移動が大きく関わっている。
ゲルマン民族大移動よりずっと昔、人類誕生から人間は移動を繰り返してきて、
氷河期や、食の変化から、生きやすい場所の選択をしてきた。
現代は富裕層にいる人々は個々の選択で世界中を移動している。
余談ですが、経営学者のRobert Earl Kelley氏は1985年に『The Gold-Collar Worker』という本で、
ホワイトカラーが分裂し、世界中を駆け巡る「ゴールドカラー層」が形成されると予想したとのこと。

(先進国の)人間にとって、自分に合わせて土地を選ぶことは当たり前になっていますが、
動物には、当たり前ではない。
その土地に生まれたからには、そこで生きなくはならない。
逆に考えると、移動こそが発展や成長、進化に繋がるといえる。

個人の成長と進化は別物ですが、私自身、引っ越しを多く経験してる方なので、
その経験は良い経験だったと思います。
私が一番長く住んでる場所は京都と熊本で、
熊本は高校で一度市内に引っ越したことを考えると、京都が一番長い場所です。
でも将来的には、どこかまた別の場所に移動する気がします。
割と近い将来。
それをめざして頑張らなくちゃ。
将来が「白の闇」です。(この本はおもしろそうなので読みたいです)

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皇帝ペンギンは、ペンギンのちびっこが本当に本当に可愛くて、
1人でキャーキャー言いながら見ました。
DVDたぶん買います。おすすめです。

2012年9月19日水曜日

続けるということ



エンポリオ・アルマーニの2012a/wの広告が好きだ。夜の新宿と美しいモデルたち。
それと共通する魅力を持つのが、GINZA2012/2月号「RUNWAY in the APARTMENT 歩く女」
今月のGINZAの「朝のコート」特集もいい。

言葉と言葉をつなぎあわせた時に、摩擦が起こり、物語が生まれる。
その摩擦にいつまでも敏感でいたい。

ハイソサエティなものと、大衆的なものの組み合せにより生まれる物語は、色っぽい。
着飾り加工した、無機質のように美しい人を、大衆的な風景の中に組み込むと、見栄えだけでない美しさが滲み出る。
色気は、ハイソサエティの世界だけでは生まれない。もっと荒廃的なものだと思う。
モデルやカメラマン、ディレクター、そして見る側の個人的な記憶やそれにまつわる感情が
背景によって呼び起こされ、そして写真に焼き付く。

荒廃が何故色気を含んでいるかというと、歴史を持っているからだろう。
生まれたばかりから荒んでいることはきっとない。性善説のようだけど。
いいか悪いかというよりは、生まれたばかりは何も知らない。無知から色気は生じない。
経験を経て、知識を得て、感情が生まれ、蓄積された感情が身体からにじみ出る。
それが色気となるか、何になるかは、蓄積された感情の種類に依るのだろう。

年を重ねるのは素晴らしいことだ。
若い頃、喉から手が出るほど望んでいたオリジナリティを身体で表現できる。
若いうちに他人と自分に差がないように思えても、それは仕方のないことだ。
ただ、若いうちに経験を重ねることを疎かにしてしまうと、年を重ねてからツケがまわってくる。
20代は何事もがむしゃらに、丁寧に、やり遂げる。

と自分に言い聞かせています。


先週末DESIGNEASTに行ってきました。
名村造船所跡地、古い建物でとてもかっこよかった。

特に楽しみにしていたのは、建築家 藤村龍至さんと社会学者 鈴木謙介さん(チャーリー)の対談。
「日本列島の状況 建築・建築家・都市をめぐる批評と予言」
列島改造論については、「日本2.0」でぱらぱらと読んだのですが、
私には難しかったので、今回話を聞けてよかったです。

今回の対談の中で、
「建築は庭づくりのようなもので、剪定し続けていかなくてはならない。
そのためには、様々な人とコミュニケーションを取り続けていかなくてはならない」
という話があって、ちょっと感動しました。

先々週くらいに行った、「ほしいも学校」のトークは、地方住民の方と関わりながら、
ほしいも学校を作られた佐藤卓さんや、
オーナー制の茶畑プロジェクト等を進めている山中史郎さんのお話でしたが、
お二人とも、地方でプロジェクトを始める場合の、じっくり取り組むことの大切さを言及されていました。

色気の話もそうですが、時間をかけて築くことに対して、魅力を感じる。
人間関係も、作品も、社会も。

でも最近は、インターネットにどっぷり浸かっているからか、長年ひとつのことに時間をかけて、
丁寧に考え、コミュニケーションを取り続けることに縁遠くなっている。
インターネットは花火のように、目立つ情報が表れては消え、表れては消えていく。
常に新しいことに挑戦し続けないといけない気がするし、継続には飽きられないことが命題となる。

良い暮らしを作ることは、それと相反していて、日々同じことを繰り返し、熟成させる。
最近、コミュニケーションを継続して取り続けることの大切さを、聞く機会が多いのも、
築くことの大切さを見直す機会が来ているように思います。
私は、一体どんな歴史の一部に関わることができるのだろうか。
コミュニケーションの中で何を与え続けられるのだろうか。


2012年9月11日火曜日

黄色い夜 つづき


昨日の絵はこうなりました。



次はこんなのを描き始めました。

がむしゃらに数を描こうとしてるけど、
いいものが描けないと凹むばかり。
上の絵も本当は全然気に入ってない。

それでも数を重ねていたら、何かが見つかるかもしれない。
知らずと上達するかもしれない。
そう信じることでしか、進めそうにありません。

なんでこんなに必死なんだとか、苦しいんだとか、気分が晴れないんだとか、
いがいがする気持ちに苛まれてるけど、手の動きは止めないようにしよう。
最近だめだなあ。
自分の作ったものが好きになれない時期は辛い。
がんばらなきゃー

2012年9月10日月曜日

黄色い夜

ずっとキャンバスに描いてたけど、
久々に紙に描くのを復活しようと思い、
昨日の夜は練習してました。


無印の80円の色ペン使って描いてます。



そしてサクラクレパス。
クレパスは想像以上に楽しかった。
混色の具合が絵具の様で好み。



もうちょっとのところでタイムオーバー。
続きは今夜。
しばらくは練習期間です。
長らく青と黄色の組み合せを描きたかったので満足感があります。
きっとロスコとムンクの影響。

オイルパステルを取り入れようと思います。
今後の方向性がだいぶ固まったので、挑戦もしやすい。
がんばるぞー

今週末はDESIGNEAST京都アートフリーマーケットに行きます。

2012年9月5日水曜日

human or animals?



高校の英語の授業で、"human or animals?"というテーマでディベートをしました。

"人間の方が動物より優れている"と主張するグループと、
"動物の方が人間より優れている"と主張するグループに別れ、
英語で議論し、第三者にどちらの論理の方が優れているかを判定してもらう、という内容です。

私は、"人間の方が動物より優れている"と主張するグループに振り分けられたため、
その主張をすることになりました。
そこで私が主張したことは、
「人間にはあのアート作品のように自己表現活動を行う。(偶然絵が飾られてる部屋でした)
動物と違い、生命の維持に直接関わりのない行動をとる。
その行為は、社会を形成し、文化を生み出す。
そのような活動は動物には出来ない。だから人間の方が優れている。」
というものでした。
この時のスピーチは後にALTの先生からこっそり褒めてもらえたこともあり、今でもよく覚えています。

その主張から考えると、当時の私が漠然と捉えていたアートとは、「形として残るもの」でした。
しかし、改めて考えると、その感覚は今でも共通している部分があるのではないか、と思います。
身体表現についてはとても無知なのですが、すごく動物的な表現活動といえるのではないかと最近思ったのです。
ダンスや演劇や、パフォーマンス等は、アートというより動物の求愛行動等に由来しているもので、
私がアートと捉えている、形に残るものは、根本を辿ると表現より記録に由来しているのかもしれない。

スポーツも含め、ダンス等身体表現活動は、「生きる」ことに密接に感じる。
そしてアートは、「生きる」活動から一歩距離を空けている、
私はアートとそのように向き合っている、と感じました。

最近、動物的な生き方をするということに対して、
自分が如何に疎かったかを実感したので、そんなことを思い出し、考えてみました。

アートが記録である、はおかしいことではないかもしれない。
しかし、記録は、肉体がないと残せない。
動物的と人間的な生き方のバランスをもっと意識して生活しよう、と思います。

2012年9月4日火曜日

善良で怠惰な動物におなり 
四本の足を投げ出して
カプートの別荘へおいで

世界なんか
父さんなんか問題にするな
もしきみがそうしたいなら
(君のコンプレックスの対象である父より)


あの詩には愛がある
あの詩には愛しかない

(中略)

愛が孤独を救うことはないのだ
恋だけが
ひととき人の孤独を忘れさせる
ただ恋だけが 
一瞬
愛の無力を忘れさせる

吉野朔実さんの短編作品「カプートの別荘へおいで」より
前半は、アインシュタインが次男に宛てた手紙の一節らしい。
じわじわと身体に入ってくる言葉。

「頭がいい」と「惹き付けられる」はつながらない。
世界を知っている人が、他人を愛せるとは限らない。
知識がある人が、品があるとは限らない。

世界に対して馬鹿馬鹿しいと言いたくなる日だってある。