2012年7月31日火曜日

上半期のベストショット



この花火の写真が今年上半期のベストショット。
iPhoneで撮ったものだけど。
琵琶湖でバーベキューして、花火を見てきました。

7月は楽しいことがあり過ぎて、自分が散らばっている。
どこかで私の一部が迷子になっている気がする。
目まぐるしいほど、それでも本当に楽しい月でした。

2012年7月19日木曜日

終わりなき日常


先日、実家の犬が急死してしまい、とても落ち込んでいました。
体調が悪いと聞いて、週末に里帰りしようと思っていたのに、それすら間に合わなかった。

前々回の記事で、「失ったものはもう一度築けるはずだ。再構築には学べる過去がある。」と書いたばかりなのに、どうしても再構築できないものがあると気付かされました。

その時期に、大事な人に言われた、「悔いが残らないように、たくさん思い出してあげて」という言葉が、すごく印象的で反芻しています。

誰かを亡くした時、その辛さをどう処理するか。
日常に溢れる辛さの処理方法は人それぞれ違うのだろうけど、
近しい存在を亡くした時は、思い出を共有できる人とたくさん話すことが、共通の行動であると思いました。
お葬式ってきっとその為の場なんだろう。
生きている人が気持ちを落ち着かせる為の場なんだろう。

最近見た「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」という映画も、
家族を亡くした子どもや母親が、混乱をどう収めていくかがテーマの映画だったと思います。
主人公の少年は、もがきながらその方法を追究していたけど、
母親と笑いながら思い出話をすることができた瞬間が、一番大きな境目に見えました。

私がジャケットを描かせていただいているバンド、「ねじ梅タッシと思い出ナンセンス」の「火葬場で思い出したよ」という曲も、
大好きなハンバートハンバートの「大宴会」という曲も、
お葬式をモチーフにした曲ですが、悲しみと並行して笑顔や懐かしさがあるのは、
「死」よりも「生きる」ことを見つめている作品だからではないか、と思います。





生きていく限り、悲しみ続ける訳にはいかない。
悲しみを背負い続けて、生きていく訳にはいかない。
自分でどうにかして、悲しみを昇華させなくてはいけない。
逃げたり、泣いたり、お酒を飲んだり、タバコを吸ったり、ヤケ食いしたり、性に溺れたり、運動したり、歌ったり、
あくまでそれらは過程であり、辿り着くべき姿がある。
自分の辿り着くべき姿を見つけておかないと、いざという時に過程の段階から抜け出せなくなるのだろうな、と思いました。

私は、宮台真司さんの「終わりなき日常を生きろ」という本のタイトルが
すごく好きで、辛いことがあるといつも思い出しています。
(本自体はまだ読めてないのでタイトルだけです、すいません)
終わりだと思っても、終わりではない。
漫画みたいにコマが変わると一年経っている訳ではない。
おなかがすくし、トイレに行くし、次の日がくる。
たったそれだけのことを、意識して自分に説かなくてはならない人が、
今の世の中には、私を含めてたくさんいるのでしょう。

バーチャル的な「終わる日常」が生まれる日が先にくるのか、
「終わりなき日常」であることを社会が認識する日が先にくるのか。
(したことないけどネットゲームとかは既に前者なのだろうか。)
何となく今の社会は、辛いに対する耐性が弱まっているように思うのです。
見ないフリをするか、終わらせるかの二択になっているように思うのです。

私は、見ないフリをするタイプだ。
だからこそ、「悔いが残らないように、たくさん思い出してあげて」という言葉が響いたのだと思います。
もっと地に足をつける人になりたい。そして今後の社会もそうであってほしい。

2012年7月5日木曜日







実家の犬が死んでしまった。
あんなにいいこだったのに。