2015年4月21日火曜日

迷子





現在開催中の芸術祭、パラソフィアに行ってきた。
京都市美術館の地下など、これまで展示に使用しているところを見たことがない場所を
展示場所として使用されていたり、見せ方の工夫がすごく考えられていたところが素晴らしかった。
しかし肝心の作品がそこまで面白く感じられず、少し残念というのが感想だ。
写真の作品はその中で好きだったもの。
(とはいえ一番上については作品でなく、京都市美術館の忘れ傘置き場。)

先日の混乱の話につながるけれど、混乱させるにも技術がいる。
ただの分からないことだけ投げられても、確かに混乱するけれど、
思考につなげられるほど粘着力のある混乱には至らない。
興味を抱くような、わくわくする混乱を与えるには、高いクオリティやセンスが必要だ。
パラソフィアの作品群にそこまで面白みを感じなかった、というのはそういう点だった。
よく分からない、それだけで終わってしまう作品が多かったように思う。
現代美術で、よく分からないものに出会うことは多々あるけれど、
よく分からない中には分からないなりに、興味を惹かれるものはあるのだ。
そこから、アートじゃなくてはいけない執念を感じられるのかもしれない。

この半年は、自分の仕事や職場についてひたすら考え、知らないことばかりな現状を打破すべく、勉強するよう心がけているけれど、今後もずっと執念を持ち続けていきたい。
疲れてしまわないように、諦めてしまわないように、
有終の美を飾るための仕事なんてせず、生き続けるための執念の仕事をしていきたい。

2015年4月18日土曜日

幽霊たちにまみれて

転職して、毎日のように良かった、と思うのは、夕焼けを見られること。
大きな窓から差し込む夕陽、積雪、野生の鹿(?)、満開の桜、桜吹雪、広い空、膝の上の野良猫。
四季を感じながら毎日を繰り返すって、とても大事だ。太陽を感じないと体が弱る。
そしてとうとう春がきた。春はもう世界の匂いが違うのだ。おなかいっぱい息がしたくなる。









最近読んだ中で一番おもしろかったのは、ポール・オースターの「幽霊たち」。
自分の経験や、自分の見ている世界なんて、いかに不確定なものか。
美しい混乱だった。

混乱を与えたい。
最近はとかく、一から十まで説明する世界になっている。
子どもたちは、説明書を読みながら社会を歩むんだろうか。
崖っぷちの足元すら見えていないよ。

アリスのように混乱と不安にまみれて、考え続けて、わからないまま、10年後にふと答えが見つかる(こともある)。
そんな問いを投げて、考えさせてくれる大人ってかっこよくて、誠実だと思うのだ。
紅茶を飲んで、考える時間に付き合ってくれるのだ。
20年経ったってそんな大人になれている気はしないけど、
そんな大人に囲まれていることの幸運を正しく自覚したい。