2011年11月18日金曜日

自分の少し大事な話 後半



後半

長いので一区切り。
前半から読んでください

「村おこし」は「村」を「おこす」ではなく「村民」と「育てる」必要があると考えました。
だけど私は今まで、村おこしなんて考えたこともなかった。敢えて避けてきた。
なので具体的な行動を、どう考え始めたらいいのかさっぱり分からない。

最近読んだ原研哉さんの「デザインのデザイン」にそのヒントになりそうな記述があったので、少し長いけど引用する。

未来のヴィジョンに関与する立場にある人は「にぎわい」を計画するという発想をそろそろやめたほうがいい。
「町おこし」などという言葉がかつて言い交わされたことがあるがそういうことで「おこされた」町は無惨である。
町はおこされておきるものではない。その魅力はひとえにそのたたずまいである。
おこすのではなく、むしろ静けさと成熟に本気で向き合い、それが成就した後にも「情報発信」などしないで、
それを森の奥や湯気の向こうにひっそりと置いておけばいい。
優れたものは必ず発見される。「たたずまい」とはそのような力であり、
それがコミュニケーションの大きな資源となるはずである。
原研哉『デザインのデザイン』岩崎書店 2003年10月発行

前半冒頭で紹介した、川俣さんのインタビューには、

そんなに簡単に町おこしが出来るわけがない。町おこしのための町おこしが、
結果としてまったく町おこしになっていないという例をいくつも見ています。
結局は、人がどうやって繋がっていくのかということでしかないのに、
経済などの観点からいろいろなイベントを組んでも、一過性のアイディアでは将来に繋がらないです。
もう少し長いスパンで付き合っていかなければ、イベントで人を呼んで町が起こるというのはありえないと身にしみて感じています。(略)
もっと根本的なところから町や人に関わっていかないと変わらないと思いますし、
経済的なものだけではなく、教育であったり、実際に住民とどのあたりまで繋がるかであったり、
もっと地味な繋がり、コミュニティと接していかないとなかなか結果は出ないと思います。

とある。

私は、川俣さんのいう「人がどうやって繋がっていくのかということでしかない」
「教育であったり、実際に住民とどのあたりまで繋がるか」に着目して考えたい。
これがきっと一番難しいし、私が苦手として逃げ出した部分でもある。

農家の人は毎日ほんとに忙しい。朝4時くらいから起きてる。
一日中、寒かったり暑かったり重かったり冷たかったり、私じゃ1時間で音を上げそうな、そんな仕事をしてる。
牛相手じゃお休みだってとれない。
そんな人に、一時的にアート作品を見せるとか、村にアート作品を置くとか、そんなことしたって何もならないと思う。
小学校で1日だけ、○○に絵を描くなんて授業をしたって、村を育てるにはならない。
もっと生活になじむコミュニケーションを考えたい。

例えば(今考えながら書いてるから大したアイデア出てないです)、
椎茸の苗木が黒いカバーをかけられてずらっと並ぶのだけど、そのカバーをもっと美しくできないか、とか…?
並べ方を美しく出来ないかとか?
牧草ロールをもっと美しくできないかとか?
牧場の牛にはおうちの名前が書いてあってそれはそれで可愛いけど、
もっと別のアイコンを考えることはできないかとか?
丸太の並べ方を変えたら美しくならないかとか?
こんな小さなことだけではなく、川俣さんのプロジェクトのように大きなスケールで考えてみたい。
全くの白紙の状態だけど、永続的に続けられることを考えてみたい。

私のアイデンティティがそこにあると分かった以上、これ以上コミュニケーションを逃げたくないのだ。
頭の中で考えているだけにせよ、その地と向き合うことが、自分と向きあうことでもあると気がついたように思う。
村と人と表現を通してコミュニケーションをとる、もしくはコミュニケーションを通して表現する、
どちらにせよ、今まで逃げてきて「どこにでもない場所」にいる感覚だった私には、不慣れなことでびくびくしてるけど少し嬉しい。

当面は今のこの場所で、あの場所を滲ませながら絵を描くしかできないけど
私が育ったのはあの村だというアイデンティティを確信した以上、それを発信していきたいと思う。
そして今の、これからの私に出来ることを、もっと考えていきたい。

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