2012年2月9日木曜日

果てにあるものは何なのか
















一昨日、昨日、ニコニコ生放送で放送されていた、
「ニコ論壇SP 村上隆個展「Murakami - Ego」カタールより独占生中継!」と
「ニコ論壇SP「闘争せよ!カタールから『日本・文化・未来』を考える」村上隆×東浩紀×岩渕貞哉ニコ論壇SP」を見ました。

村上さんが今、カタールのドーハで個展「Murakami - Ego」を開催されていて、
そこで展示されている新作「五百羅漢図」のコンセプトや、
311を受けてどう意識が変化したか、などすごく内面的な話が多かった印象でした。

この論壇を聴いている間、ずっとどきどきしっぱなしだった。あっという間の1時間だった。
その中でも印象に残っているのは、
311以降、芸術や思想は社会に切実に求められており、
村上さんや東さんがそれに応えられるものを作ろうと苦闘してきたという話。

「311以降は芸術や思想が求められるような緊急事態だった。」ということが今まで自分には全くピンと来ていなかった。
「文化は緊急事態にこそ必要なもので、普段の日常には必要ではない」なんて、真逆だと思っていた。
緊急事態に求められるのは物資やお金といった、生きる為に必要なもののみだと思っていた。
どちらかというと絵にできることはない、正確に言うと、お金にならない絵を描くならその材料費を寄付すべきだという考え方だった。

でも昨日の論壇は、そんな表面的な話ではなく、もっと真髄に迫る話だったと思う。
「強い作り手が作ったものを、弱い人が消費する」という表現が印象的だけど、
求められていることを与えることがどれほど大変なことか、ほんの少し知ることができた気がする。

物資の場合なら、「持っている人」が「持っていない人」に分け与える。
それが芸術や思想の場合は、「持っている/持っていない」のように始めから決まっているのではなく、
求められているものを生み出さなくてはならない。

311で生じた日本のほころびを埋め、更にその手段を解析し、世界に譲渡する処方箋を生み出すには、
村上さん曰く「人にしてあらずの仕事量と決意を持たなくてはならない」。

ほころびを埋めるほどのものを創る人は、人にあらずほど強くなくてはならない。
強くあるとはどういうことか、
私はずっと「強い人とは、孤独と戦い続けることが出来る人」だと思ってた。
でも今回この論壇を聴いて、上に加えて、ものすごく優しいことも条件に入るんだなと思った。
「誰かのため」を思い続けることができる人、誰かのためにしていることで痛みを伴っても、それでも戦い続けることが出来る人。
その「救った誰か」に理解されず報われなくても、それが恐らく一番の痛みだろうけど、それでも戦う人。

私が「絵にできることはない」と考えていたことや、
どこかで感じていた「絵を描いて励ますなんて自己満足ではないか」という考えは、
「絵」の持つ力の有無ではなく、私の意識が低かったのだと実感した。
自己満足にしかならない絵とは、私の描く絵のことだった。
今まで、自分自身を優しいと思ったことが一度もなかった理由が分かった。
誰かのために戦ってなかったんだな、と思った。

去年の今頃、311より少し前、人に対して全然優しくなれず、
自分がどれだけ弱く自分本位な人間なのか、自分自身によって思い知らされたことがあって、
そこからずっともがき苦しみ続けている。
その時の自分の弱さと、それに伴う醜さが今でも恐ろしい。

本気で向き合おうとした人に優しくなれなかった自分が、
世界を救えるくらい、優しく強くありたいなんて軽々しく口には出来ないけど、
この論壇を聴いて、あとたまたま今日いただいたお仕事のアドバイスによって、
それでも、本当に誰かのためになるものを創り出してみたいと思った。

平常時、表面的に優しく見える術だけを身につけるのではなく、
もっと本質的に身につけなくてはならないものがあると、意識を改めることができたと思います。

私の作ったもので、いつか償うことができればいいと思う。
誰かを救うことができればいいと思う。

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